サッカー日本代表と国立競技場の輝かしい歴史
国立競技場は1960年代から70年代にかけて、日本サッカーの聖地として頻繁に使用され、多くの名勝負が繰り広げられました。この記事では、そんな国立競技場の歴史と、後藤健生氏が忘れられない名勝負を紹介します。

サッカー日本代表と国立競技場の輝かしい歴史
国立競技場は1960年代から70年代にかけて、日本サッカーの聖地として頻繁に使用され、多くの名勝負が繰り広げられました。
1964年10月の東京五輪で、陸上トラックの赤と芝生の緑が印象的だった国立競技場は、ハンガリー対モロッコ戦で名手ベネ・フェレンツがひとりで6ゴールを決めてハンガリーを勝利に導いた場所でもあります。
当時、サッカーはマイナー競技だったので入場券の売れ行きがよくなかった。そこで、都内の小中高校生がスタンドを埋めるために動員され、当時新宿区内の小学6年生だった後藤健生氏も学校から国立競技場に連れていかれたのだ。そして、これが後藤健生氏にとってサッカーとの出会いだったといいます。
それ以降、おそらく1000回くらいは国立競技場で試合を見てきたはずだ。なにしろ、1960年代から70年代にかけて、国際試合や当時のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)では国立競技場が頻繁に使われていた。
だから、国立は「サッカーの聖地」と呼ばれていたのだ。
「陸上兼用だから試合が見にくい」などと文句を言う人はいなかった。
旧国立競技場は東京五輪でメインスタジアムとなった陸上競技場だったから、たとえば照明にしてもトラックの部分は明るかったが、芝生の中央つまりセンターサークル付近はとても暗かった。
それでも、陸上兼用としてはサッカーの試合が見やすいスタジアムだった。
スタンド最前列はトラックのすぐ外側まで迫っており、傾斜も急だったから、ピッチまではそれほど遠くなく、俯瞰的に見ることができた。今の国立競技場よりもずっと試合が見やすかった。
もちろん、専用球技場に比べたら試合は見にくい。それでも誰も文句を言わなかったのは、他に選択肢がなかったからだ。当時、日本には野球場以外で5万人以上が入るスタジアムは国立以外になかったのだ。
1964年の東京五輪で使用された三ッ沢球技場(現ニッパツ三ッ沢球技場)や大宮サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)はあったが、いずれも1万5000人程度の小さなスタジアムだった。だから、ビッグゲームは国立以外ではできなかったのだ。
旧国立は、サッカーだけでなく、陸上競技やラグビーの聖地でもあった。ひとつの大規模スタジアムを各競技で使用する......。それは当時の世界の常識でもあった。たとえば、1974年の西ドイツW杯ではドルトムント以外の会場はすべて陸上兼用だった。
だが、米国ではかなり前からアメリカンフットボールは専用競技場で行なわれていたし、欧州でも英国やスペインではサッカー専用競技場が当たり前だった。そして、1990年代以降になるとドイツやフランスなどでも専用化が進み、21世紀に入ると、交通アクセスのいい都市部に近代的でコンパクトなスタジアムを建設するのがトレンドとなった。
今では日本でも専用球技場がいくつも建設されている。大規模スタジアムを陸上、サッカー、ラグビーに使うというのは、もう時代遅れの発想になったのだ。