長嶋茂雄の立大進学秘話:プロ野球史を変えた決断
長嶋茂雄の立教大学進学にまつわる秘話を紹介。プロ野球史を変えた決断の背景と、彼のキャリアに影響を与えた人々の物語。

長嶋茂雄の立大進学秘話
1953年8月1日、高校野球南関東大会1回戦で、佐倉一の3年生・長嶋茂雄は熊谷のエース・福島郁夫の内角高め直球を強振し、バックスクリーンに突き刺さるアーチを放った。これが長嶋伝説の始まりであった。
田中茂光氏は、その1年前からすでに「佐倉一・長嶋」に着目していた。朝日新聞の千葉県版に載っていた佐倉一の紹介に「遊撃の長嶋は粗いけれどもスケールが大きい」とあり、彼の頭に残っていた。
田中氏は、社会人野球・富士製鉄室蘭の小野秀夫マネジャーから相談を受けた。小野マネジャーは、名前が知られていない有望選手を探していた。田中氏は「佐倉一に長嶋というサードがいる。久保田さんも絶賛していたぞ」と推薦した。
小野マネジャーは佐倉の長嶋家に向かい、父・利さんに茂雄の入社を直談判した。しかし、利さんは「長男を大学に行かせられなかった。茂雄は進学させたい」と答えた。法大からも話が来ていたが、立大OBの小野マネは方針転換し、「立教はどうですか。砂押邦信監督は育成が上手です」と提案した。
長嶋さんは東京・東長崎の立大グラウンドで練習に参加し、紅白戦でライナー性の右中間二塁打を放った。砂押監督はその才能にほれ込み、阪急や巨人などプロ数球団も獲得に動いたが、立大の囲い込みは強固だった。
立大入学後、砂押監督は日が落ちた後も、ボールに石灰をつけ“闇夜の1000本ノック”で長嶋を鍛えた。自宅の庭に呼んでは素振りをさせた。猛特訓の結果、2年から正三塁手となり、4年秋には当時のリーグ通算最多を更新する8号をマーク。巨人と南海が争奪戦を繰り広げた結果、巨人入りを決断した。
田中氏は振り返る。「もし法大に行っていたら、砂押さんに会わなければ…その後の長嶋茂雄はいなかったでしょう。間接的にですが、進路に関われたことは、誇りでもありますね」